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3.人生の幸福と経済社会の活力の源泉としての結婚ーキリスト教の結婚観

日本の男性、女性はは結婚式を挙げるとき、多くはキリスト教結婚式、神前結婚式。仏式結婚式を採用します。このことは結婚式が宗教上の重要な「聖なる儀式」として捉えられている証拠でしょう。そこで、ここでは、各宗教の結婚観を取り上げて見ましょう。取り敢えず、キリスト教、神道、仏教の結婚観を検討してみます。

【1】キリスト教の結婚観
キリスト教は民族、人種を超えた世界宗教として、世界史に重大な影響を与えてきた宗教です。聖典は、「聖書」ですが、歴史的な事情から、西方協会(カトリック教会とプロテスタント教会)と東方教会(正教会)に分けられます。まず、聖書からキリスト教が男性と女性をどう捉えているかを見てみましょう。以下は、同志社大学、大学院でプロテスタント神学を修めた佐藤優氏の「神学の思考ーキリスト教とは何か」(平凡社)を参考にしています。

(1.1)キリスト教からみた男性と女性の創造目的
厳密に言えば、旧約聖書が記述している人間の創造には二通りあります。ひとつは、創世記1章26節以下に記述されているものです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を作ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

「補助線」ですが、「産めよ、増えよ」というのは、同じ意味のように聞こえますが、English Versionによりますと、「Be fruitful and multiply」となっています。この「fruitful」は、英会話大手のアルクによりますと、「文字通り『実が多い』ことを意味する。また、量だけでなく、質の面でも『充実している』ことを言う」のですが、最初の解釈の如く多産ということになりますと、後の「muliply」と重複します。そのため、後者の、「創造された人間の人格の充実=完成」と解釈した方が良さそうです。

ということで、この下りは、①人格神でもある創造神の姿に似て人格完成する②人格完成した男女が結婚して子孫を産み増やす③家庭を形成した同格の男女が力を合わせて人間以外の神の被造物(万物)を神の(愛の心をもって)管理するーという意味に解釈することが自然と思われます。飛躍するようですが、これが神の天地「創造の目的」と言って良いかもしれません。

さて、旧約聖書が記述しているもうひとつの人間創造の箇所は、創世記2章4節以下て゜す。重要な箇所を挙げると、①主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにさせられた②「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」③主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を作ろう」として、「(人の)あばら骨で女を造り上げられた」。そして、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」ーの三点を指摘できます。

さて、このくだりについて、二つの重要な点が指摘できます。ひとつは、佐藤「神学の思考」185頁によると、「神がまず、男を造って、男を『助ける』ために、男のあばら骨から女を造ったという・・・解説は、女性の地位を不当に貶めています」とし、プロテスタント教会とカトリック教会が合同で作成した「創世記」の注釈書を援用して、「助ける」は「助け合う」の意味で、男性と女性とはともにパートナーの関係にある、としていることです。

男性と女性は価値において同格であり、役割に差異(相違)だけがあるという佐藤の考えにはIBFSも同意できます。さて、もうひとつの重要な点は、アダムの妻であるべきエバが神の戒めを破り、「善悪知るの木」の実をとって食べたということです。聖書では、ここから悪が入ったというのが定説ですが、これについて、佐藤は話題にしていません。かろうじて、108頁に「人間には自由意志があります。それだから、人間は神の説得に耳を貸さずに、神に反逆することができるのです。・・・人間の自由意志は、罪の奴隷となることを選択する意志なのです」としています。

ところが、佐藤は176頁で「神からの呼びかけに対して、人間は応答する責任を負います。この応答責任を遂行することが、人間の自由なのです。神の栄光のために、すなわち絶対他者である神のために尽くすことによって、人間は自由になるのです。」と述べています。これは明らかに矛盾ではないでしょうか。言えることは、人間は自由によって堕落することは決してないということです。これについては、キリスト教内部での徹底的な検討が待たれるところです。

結論として、神は男性・女性を相互に信頼し合える価値において同一のパートナー(協力者)として創造し、①相互の人格完成②結婚による家庭の形成と子女繁殖③人間以外の被造物を神の代身として創造したーということが聖書の素直な解釈ではないでしょうか。

(1.2)キリスト教の結婚観
佐藤186頁によると、「カトリック教会、正教会では、結婚は洗礼、聖餐と並ぶサクラメント(イエス・キリストによって定められた救済を保証する儀式)」ということで、両協会ともに原則として離婚は認めていない。ただし、結婚が何故、サクラメントに属するのかについての説明はない。もっとも、結婚が東西にかかわらず、キリスト教に取って救済の原点になっていることは重要でしょう。

これに対して、佐藤186頁によるとプロテスタント教会は、結婚にサクラメントとしての地位を与えておらず、離婚も消極的ではあるが、認めている。以下、佐藤の183頁から214頁の「なぜ結婚し、結婚しないのか」から援用する。佐藤はプロテスタント神学の結婚観について、20世紀最大の神学者であるカール・バルトの教義額に全面的に賛同しますが、筆者のみるところ、次のようになるでしょう。

「結婚について、一般論はないと、バルトは強調します。具体的な男と女、女と男の具体的な関係から、結婚は成立します。結婚することが神からの戒めにかない、二人で築いていく生活が、神の栄光に奉仕することになると信じるときに結婚は成立するのです。裏返して言うならば、神の栄光に奉仕することがないような男と女の結びつきならば、崩れても仕方がないということになります。バルトのこのような見解は、明らかにパウロの離婚観を踏襲したものです。(前に引用した)『コリントの信徒への手紙一』の七章十五節で、パウロは『信者でない相手が離れて行くなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいけません』とのぺています。性格に言うと、この場合は、離婚するのではなく、そもそも結婚が成立していないということになります」。

要するに、恋愛と結婚は異なるもので、神の栄光のために男女が結婚生活をすることが、結婚の真の意義だとパウロ・バルト・佐藤は捉えているようです。カトリックと正教は結婚がサクラメントの一環であって、ひとつの終着点になる要素が濃いのですが、プロテスタント神学では結婚生活が「神の栄光を実現するための過程的行為」とのニュアンスが強く出ているようです。カトリック、プロテスタント、正教会いずれにしろ、結婚は信仰義認➤サクラメント(救済の儀式)➤聖化の過程としてとらえることができるでしょう。ところで、問題は「神の栄光」とは何か、ということです。このことが明確に示されない限り、キリスト教の本来の姿は明確にならないでしょう。